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2003年私の息子二人はラグビーを始めた。数多くのスポーツの中で、ラグビーをやりたいと言ってくれてとても嬉しかった。なぜなら自分の青春がラグビー漬けの毎日だったからだ。
私はCANOWINDRAという小さな田舎町に生まれ育ち、家は競走馬の生産場を営んでいた。人口2000人の町なのにラグビーの強豪で、1971年に(私のU10も含め)全学年がリーグを優勝した。毎年秋になると火・木の午後は練習、土曜日は試合、日曜日は町の代表チームの試合を見に行く。しかし、わが町に高校はなかったため、多くの子供は寄宿学校に通い、私も中1から高3の6年間寮生活を送った。
この学校ST STANISLAUS COLLEGEもラグビーの名門で、在学中にラグビー全国大会(WARATAH SHIELD)を2回制覇した。(2006年にサニックスのワールドユースに参加)。寄宿学校男子校は、退屈で、スポーツをするしかなかった。ラグビーのほかクリケット、水泳、陸上、テニスなど各スポーツのチームに入った。私は体格に恵まれ、1976年にU15のNSW中西地方の代表に選ばれ全国制覇をしたが翌年の夏休みに牧場の仕事で腰を痛めて2ヶ月間入院した。一年後に復帰したがかつての調子が出ず、学校の1軍ではなく2軍でプレーをした。高校を卒業後しシドニーで就職し、RANDWICKクラブに入ったが、貧乏の私は車がなくて練習に通うことがでず途中でやめた。
1984年に高校の仲間と初の海外旅行をした際、外国語に興味をもち、帰国後大学で日本語を勉強した。そして1987年来日。福岡の居酒屋でバイトをしながら日本語を勉強し独身時代を満喫した。そのころカンタスの支店長池永さんと出会い、博多三五クラブに入った。20年前のことで記憶は定かではないが、その当時すごいおじいさんのチームと試合をした記憶がある。それはきっと迷惑だったと思う。こんな年でまだラグビーをしているのはすごいなと感じた。
2004年に息子2人が平尾ウイングに入部し、お父さんの過去の栄光の話をする。しかし、ことばだけはどうもインパクトがないなと思った。ある日、長男を博多の森へ九電Vサニックスの試合を見に連れて行ったらちょうどバスに乗り合わせたのはRUXTONだった。「俺はまだラグビーをやっているよ」と言ったことは驚き、「彼ができるなら俺もできる」と迷惑の入部を申し込んだ。
あれからもう5年近くになったけど、週末はラグビー漬けになった。小学生の次男は平尾ウイング、中学生の長男は春日ヤングラガーズ、そして私は迷惑。
この間息子が「お父さんは黄パンになったら僕は白パンだよ」と言った。その日を楽しみにしている。
クリス U15のメンバー 中列 右から2人目がクリス |