先輩に学ぼう 後輩を知ろう |
第2回目は 藤晃和先輩です。

藤 晃和 Terukazu Fuji

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博多人形にかけるラガーマン人生
『ひとつだけ勝つ方法がある』
博多人形『ラグビー人形』作者の藤 晃和さんは、根っからのラガーマン人生を歩んできた。小学校6年生のとき、相撲大会の県大会で大将として優勝した。中学どうしのけんかでは、教師たちが藤をつかまえる。1年生からずっと級長だったが、けんかが強く、教師を困らせていた。乱暴な中学生どうしの果し合いも、藤を抑えてさえいれば大事に至らないと教師は考えたようだ。
福岡高校に進み、ラグビーを始めた。当時福岡の高校ラグビー界は福高と修猷館の両県立高らが覇を競っていた。しかし1953年、3年生の全国高校ラグビー県予選を前に、夏合宿で福高は修猷館に53対0で完敗した。この年の福高チームは弱く、春から対戦成績は芳しくなかった。その1ヶ月半後の県予選でなんとか勝ち進んだ福高は修猷館と対戦することになった。修猷館は直前の秋の国体で全国優勝を果たしている。福高の勝利を信じるものはいなかった。それでも先輩は「ひとつだけ勝つ方法がある」と言った。「それはタックルだ。しかしタックルは教えるものではない。自分たちで考えろ」藤ら3年生が頭を突き合わせ考えた結果は、敵を向こう側に倒すほどの勢いのあるタックルをすることだった。
試合は開始間もなく、こぼれ球を拾った福高がトライ。その後は修猷館が怒涛の反撃を仕掛けてきた。福高はそれにタックル、タックルで挑み、ことごとく潰していった。終を告げるレフリーの笛に、福高フィフティーンは、全精力を使い果たしたかのようにグランドに崩れ落ち、すぐに立ち上がるものはいなかった。唯一のトライ3点が決勝点になった。
その勢いを駆って、全国高校ラグビーの優勝旗を福岡に持ち帰った。藤は、たとえ弱くても一心に向かい合えば勝機も訪れることを知った。
『首の力ではじき飛ばす』
早稲田に行きたかったが英語が苦手で、明治大に引っ張られた。ラグビーの世界では、「展開の早稲田」『前へ』の明大」と言い、戦術の違いが際だっていた。明大には昭和4(29)年以来96年までの67年間、監督を務めることになる北島忠治さんがいた。「前へ」が信条で、逃げたり、ためらったりすることを嫌った。
100mを平均12秒で走るのが普通の中で、藤は15秒を要した。1年春の練習試合では、ボールを追っても一度も触れられず、このままでは4年間いても試合いに出れないのではないかと感じた。だが「前へ前へということは、後ろはどうなるのだろうか。後ろにいたら、おれは一番になれる」。みんなが前に出たら、自分は後ろに回って、かれらのカバーをしてやろう。自分がいるから、味方は思いっきり前へ出られる。横に並んでいると見えないが、後ろにいると試合の展開が見え、どこに入った方がよいかが分かる。それに15〜20m離れていても、2〜3秒あれば追いついてしまう。そうした藤を北島監督は1年秋からレギュラーに据えた。
首で100kgのバーベルを100回持ち上げる練習をし、強烈な首の力と突進力でスクラムを組んだ相手陣をはじき飛ばした。そのときのせいで首の神経を痛め、いまも手がときどきしびれる。藤は敵から恐れられる存在になった。そして4年になってキャプテンになった。
『明大北島監督との厳しい師弟関係』「前へ」を貫けなかった悔恨
しかしキャプテンとして自分のプレイとともにチーム全体を見なければならない立場になったことで迷いが生まれ、それまでの思いきりの良さがなくなっていた。敵に藤は怖くなくなったとも言わせた。心の奥底にあった早稲田の展開のラグビーへの憧れと、北島監督の「前へ」の教えとの間の揺らぎが、キャプテンになったことで顕著になったかも知れない。その迷いは雌雄を決する伝統の明早戦で出た。明早戦は、関東大学ラグビー対抗戦グループ最終戦として、毎年12月の第一日曜日に当時は秩父宮ラグビー場で行われていた。両校の加勢が講じて一時期中止されていた時期さえある。57年、双方譲らない一戦は最終戦を迎えた。藤を中心にした明治のスクラム陣は、早稲田をぐいぐい押し込みスクラムトライをねらった。そのように思えた一瞬、明治陣からボールは横に出された。早稲田はすかさずそれを潰した。藤は確かに「前へ」という北島の教えを守ったのだが、自陣の意思統一を図っていなかったのだ。キャプテンの心の迷いがチームに拡がっていた。このワンプレイで明治は早稲田に敗れた。
『オールブラックス主将と対峙』
北島監督は厳しかった。信頼していた教え子に裏切られたという気持ちだったのだろう、と藤は振り返る。以後、北島は藤を一切認めなかった。八幡に入り、藤はがむしゃらに前に出る動きをするようになった。明治との定期戦では特にそうだった。北島監督に見てほしかった。オールジャパンで世界の強豪ニュージランド・オールブラックスと戦ったとき、相手のキャプテン、ウィナレーは藤を日本一のラガーと評した。ウィナレーと対峙した藤が一歩も引かず、自分を打ち負かせたからだ。常に前へという北島の教えが正しかったことを身をもって知った。
『不惑で迎えた人生の転機』
28歳で現役を退き、鉄を売る仕事に突き進んだ。75年、40歳になって藤は北島監督に会い、頭を下げた。「分かったのか」とやさしい言葉が返ってきた。これを機に迷惑倶楽部に入り、ラグビーを再開。北島監督との交流も持たれるようになった。明大を卒業し社会人となった不惑の歳を迎えるまでの長い年月だった。
結婚は27歳でした。相手は全日本ジュニアテニスで優勝した岡紀子さん(旧姓21歳)だった。藤と紀子さんの結婚は当時地元地方紙やスポーツ紙が取り上げ話題を呼んだ。2女1男をもうけた。84年、藤は49歳で「ラグビー人形をつくります」と言って会社を辞めた。必ずしも確信があったわけではないが、転勤の連続に終止符をうち、家族との時間をもっと取りたいと思った。妻には、何をしてでも子供は育て上げると誓った。人形作りは手先が器用でそれまでも趣味で作ってきた。その年、長男の和恒さんが西南学院に進学したのを機に、高校と大学のラグビー部のコーチを引き受けた。和恒さんは早稲田に進みラグビーのフィフティーンになった。藤は数年して西南学院大学ラグビー部を38年ぶりの九州代表に育て上げている。
『博多人形に認定されたラグビー人形』
ラグビー人形は、地元で焼いた素焼き人形に彩色したものだったが、博多人形とは認められなかった。彩色には、昔は顔彩が用いられていたが扱いがデリケートのため、いまではポスターカラーによるものが一般だ。藤はそれをアクリルカラーに切り替え、色ムラがなくひび割れがしないように工夫した。いまは注文生産が主で、ジャージやワッペンなど本物の色や形、選手の名前など入れて作りあげる。サッカーや野球などレパートリーも増してきた。人形作りが20年になった。卒業記念にと、まとまった注文が入ると徹夜仕事になることもある。妻の紀子さんも一緒に彩色の筆を取る。納期に遅れることだけはしたくない。新幹線に乗って運んだこともある。
3年前、卸問屋の協力で「博多人形400年祭」に出展が許され、ようやく博多人形と名乗れることになった。伝統工芸の証紙が立派に貼られている。

「天国の仲間からのMessage」
『感 謝』 故北田 恵一氏(2003.3.15没) 迷惑40年記念史より
草野球をやっている人が、「王・長嶋」とプレーする事は実際無理なことです。でも迷惑倶楽部では名プレーヤーと一緒に出来ます。僅かに私よりラグビー歴の浅い方もおられますがそれなり精一杯やって来られた方々とプレー出来るのです。
自分(フッカー)に直接関係のある方を挙げても・・・・・例えば関根さんボールを入れて貰い藤さんに引っぱられてボールを掻く・・・確かに面くらった事も沢山あります。
普通ボールをスクラムに入れろ時は、ボールインの声でボールが入って来るものです。しかし関根さんの場合は「ボール」の声でボールが入って来ます。最初の市民大会の時でした。プレー中、二、三度トンネルし藤さんに怒られました(勿論試合後、関根さんにお願いして練習しました)。またその試合中(対西部ガス)敵ボールでのスクラムでボールが入った途端スクラムが潰れましたがボールは私の右足の下にあります。なんと藤さんの頭で掻かれたボールです。・・・又ある時、大分で熊惑と戦った時、最初私が敵ボールを掻き損った時、(掻かんで良か、押そう)と言われ、藤さんにしっかり(後で右手が痛くなる程)パックして藤さんについて行きますと、それからの敵ボールでは自然と私の右足下にボールが来ます。唯それを掻くだけでマイ・ボールになる訳です。マイボールは勿論、敵ボールも殆んど取れました。いい気になってボールを取ってると又笑いながら藤さんが「あんまり、むごかことばしなんな」と言われ敵ボールを取るのを止めようと思った矢先ノーサイドとなりました。試合は80点位差がついたと思います。
これはほんの一例です。こんな迷惑倶楽部の方々の中でプレー出来る事を本当に感謝しております。

「身内からのMessage」藤 憲意智
右の写真の人形は叔父より頂いた、紙粘土で作られた『らがードール』の原型です。一品しかありません(叔父の死後は値が上がると思い大事に金庫に保管しています)
20数年前、単身赴任で福岡に在住時に作ったものです。その当時『この人形で飯ば食うていこうと思うとうばってん、どげん思うや』と相談されましたが、私は、多分会社は辞めるやろうな、叔父が相談するときは、90パーセント以上はもう決めていると思いましたが、一応、趣味にしたら、そつちのほうが楽よといいました。
そうこうする間に会社を辞め、その後、福高OB、明大OBの方々の発起で『藤 晃和君をハゲます会』なる案内が届き、その会の進行は後輩の森 重隆氏の司会で進められました。
最後の挨拶で叔父は『人形師』になりますと家族の前で宣言。
私は『ほーら、やっぱり決めとったやろうが』・・・・・・
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